<不登校・自閉症>

<不登校・自閉症>

不登校情報

カウンセリングの申し込みより

  1. 相談内容
    中学1年女子
    3月に転居、転校以来不登校。
  2. 症状
    頭痛、腹痛、下痢、生理不順
    不眠、幻覚(亡霊が見える)
  3. 通院治療
    母子ともに精神科受診。
    精神安定剤を連続服薬及び除霊を勧められる。
  4. 母親の娘に対する主な悩み
    (ア) 不登校
    (イ) 外出が怖い
    (ウ) 拒食
    (エ) 依頼心が強い
    (オ) 幽霊が出る、見える。
    (カ) 留守番ができない。

日に日に娘が衰弱する、一刻も早くと
申し込みから3日後、母娘、カウンセリングに来館。
(於 東峯婦人クリニック別館にて)PM3:00~PM5:00

※ 母親から聞けた事
・転勤族の夫が単身赴任。
・ついの棲家としてマンションを購入。母娘で暮らす。
(12階建ての11階)
・ 転居先に相談できる友人・知人がいない。
母親自身、精神不安定に陥る。
→  夫に一刻も早く戻ってきてほしい。
・ 子供の意志を操作できる時に母親のいいなりだった―と。

※ 本人(娘)から聞けた事
・ 先ず、亡霊の絵を描いてもらう。
「マンションの窓から何が見える?」の問いに
「焼却炉の火」と応えが返ってくる。
「亡霊が出るのに、ピッタリの条件ね。」というと、
ニヤッと笑った。
・「前の学校に好きな子いる?」の問いに
恥ずかしそうに、ニコッ、まさに思春期!
・「前の学校に戻りたい?」にうなずく。
・「せっかく買ったマンションだから、否と言えなかった?」にうなずく
・「前の学校に親友はいる?」に
「うん、1人」。
・「体育がなければいいと思う?」に「はい」。
・「本当は学校に行きたかったのよね?」
「体育がなかったら・・・」
これが直接不登校の原因。
江崎との思いがけない話の展開に、母親の目は点。
・「お母さん厳しい?恐い?」に「はい」
逆らえない、転校も「いや」と言えなかった。

[解決策]

・ 元の学校に戻れるようにかけ合う。
・ 婦人科受診、採血 → 貧血あり
体育見学の必要あり
診断書発行を依頼
・ 亡霊の絵をもらって江崎が除霊。
犬小屋に貼ることを約束(笑う)
カウンセリング2時間でほぼ解決。
3日後から元気に通学しだしたと連絡あり。

母親に伝えたこと

・ 通学してくれてありがとう。
・ お母さんもがんばらなくちゃ!
・ これからはイヤなことがあったら言ってね!
夫や子供がありもの、当たり前になってしまいがち、
感謝は言葉に出して伝えましょう。

江崎の感想

一番問題とするのは、イヤをイヤと言えない親子関係。
・ 幼少期、子供の意志を操作できる時に操作することによって、
思春期、_非行、_不登校etc.といった形で表現する場合がある。
・ せっかく購入したばかりのマンション、
「イヤがイヤ!」と言えなかった。
「亡霊が・・・」とでも言えば引越しできるのでは?と考えたのだろう。
事実、母親の亡霊に対するおびえようが物語る。
いかにも、中1、マンガ好きの少女の子供らしい発想である。
・ 夫や子供に甘えていると温かい。
自分が寂しい人にとっては子育ては大変。
・ 子供が離れていくのが寂しい
先ず、母親が自立、子供に負担にならないこと。
※育成の過程で一番気がかりとなったこと
幼少期から、自然の中での遊びの体験がまったくなく、
犬やネコが恐い、親子ともに動物が大嫌い。

終わりに人を育てるのは人だけではない。
人間も自然物のひとつであって、人以外のものに育てあげられているのだ、
という事にも気付くゆとりさえない。
空を飛ぶ鳥、小さな花、弱い生き物、自分より弱い子、障害のある人。
幼稚園時代から競争社会に投げ込まれて、そういうものに心を寄せるゆとりのないまま大人になった。
そういう大人に育てられている子ども。
思いきり遊んで、食べて、そしてぐっすり寝る。
当たり前の経験をしないままに大人になった私達が、どれほどの事が言えるでしょうか?
出来事が起きた時、子どもを責める前に、子どもに何を与えられなかったかを静かに考え、探してみる事ではないでしょうか?
子ども心を持てないまま大人になった私達(親・教師)がどれだけ、子供にいばっていられるのでしょうか?
本当に、一人一人の子どもが、子どもらしい子ども時代を過ごせているのでしょうか?
自然をはじめ、出会うは大切である。
音楽専門学校にて、地位、名誉、肩書き、学歴・・・そうしたものとは全く別な価値観で生徒の個をとらえ、全身で関わって下さった大人達がいて下さったことに感謝申し上げます。
シンガーソングライター江崎和歌を育てたのは私ではない。
時の流れと、自然と、動物と、音楽である。
貿易センタービル火災時、ミュージシャン・アーティストが大活躍したことを思い出す。

平成15年6月9日 江崎喜久枝